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2023年7月29日 (土)

しまった、うっかり時間をかけてしまった

発達、労働時間、育児、お迎え、保育・・・色々な言葉が言葉が言葉がー。

ところで、「コーチはどんな子ども時代を過ごしたのですか?」とか(一般的に分けられるタイプを挙げられて)「コーチの親はどんなタイプだったんですか?」というご質問を頂くことがあります。ここのところ、少し続けてご質問を頂きました。
私のこととかだと小さな小さな例にしかならないので、参考にはならないと思っています。なので、私自身が何かを考える時には、一つの例にはしますが、参考にするのは、私自身のことよりも、これまでに私が実際に見て来た、多くの実在するケースです。
ただ、そんな小さーな例の一つとしてですが、ご質問頂くこともあったので、(小さな例とはいえ、参考になるかなということを)二つ書いておきますね。この頃、色々と目にする記事を読むと、「うーん」となることも多いので、ご参考に。
まあ、今とは時代が違いますけどね。
えーと、私は保育園でした。
今、ちょくちょく、幼稚園や保育園にお迎えに行った時のことの記事があるようですね。
時間帯のこととか、雰囲気的なこととか。
私はいつも親のお迎えが最後の方で、帰るのは、だいたい、最後か、最後から2番目でした。
夕方になると、お迎えに来た子が一人、また一人と帰っていきます。
人数が少なくなって、少しずつ寂しい感じにもなってくるのですが、お迎えに来てくれたら嬉しいので、それでいつもチャラ(という言葉を知らない子ども時代でしたが)になりました。
一番最後だから嫌だったとか、親をうらむとか、そういうのはなかったです。
自分が先に帰ることで最後の一人の子が残ることになる時は少し複雑だったように思います。
たぶん、立場が逆の時は、もう一人の子もそう思っていたと思います。
だいたいシゲちゃんと二人で、遊んで待っていました。
おそらく、園の先生も、いい感じで私たちのことを見てくれていたのだと思います。
人生にマイナスになるような寂しさは感じていないと思います。
プラスになるくらいの、相手の気持ちをわかるようになれる、ちょうどいい寂しさは感じたかもしれませんが。
ただ、同時に、その寂しさをなくしてくれようとする温かさを先生たちからも受け取っていたんでしょう。
私の場合は、もう一回同じ状況になるといっても、全然OK♪ です。親としては「寂しい思いをさせたくないな」と思いますが、育った子の立場としては、「全然OK」です。
(これも完全にケースバイケースだと思いますが、私は母子家庭で育ちましたが、これも、もう一回同じ状況になるといっても、全然OKです。←人によると思いますから、全ての人に当てはまるとは限らないと思いますが、私の場合は同じ状況になるのは全然OKです。)

話が変わって。
2、3年生の頃だと思いますが、算数の九九を覚えるのが、クラスで終わりの方でした。たぶん、最後ではないと思うんですけど、最後から2番目とか3番目とかだったと思います。
その時は、九九を覚えたら手を上げて、みんなの前に出て、暗記した九九を言うんですけど、私は最後の方で。
確か、その発表の時も、九九のよく覚えていない部分は、見ている友達が口とか指で教えてくれたような気が・・・うっすらします。あまりにも私が覚えないので、当時とても厳しかった担任の先生も、それを見逃してくれました。(遠い記憶ですが。)
あと、同じく2、3年生の頃、漢字を覚えるのも苦手でした。これも決まってマコトと一緒に「居残り」または「宿題」となっていました。宿題をマコトの家にやりに行って、絶対に覚えないよというやり方で漢字を書いていました。
先にうかんむりだけ10個書いて、みたいな書き方。
当然、漢字のテストはダメだったと思います。(もう覚えていないです。)
行動面では、1年生の頃は、花を使って色水を作った時に、おいしそうだからちょっと飲みました。
2、3年生の頃、牛乳瓶を頭の上に乗せて歩けるかなと思って歩いて、瓶を割りました。
絵を描くのは好きでした。
疑われるのが大嫌いで、ちょっとでも疑われるとすごくすごく怒りました。
道具箱は整理された状態ではなかったです。いい匂いがするからと、メロンの皮を入れておいて、それをすっかり忘れ、すんごいことになったこともありました。
色んな様子を見せていたと思いますが、今の時代だったら、たぶん、九九の覚えの悪さと漢字の覚えの悪さ、プラス、他の行動のいくつかから、色々と当てはめられていたでしょうね。
・・・という私ですが、高校ではまったく違う成績になりました。
なぜでしょう?
おそらく、まったく普通に過ごしていたからだと思います。
色んなことから、自分に合った達成感を覚え、色んな比較を自分なりにして、失敗も成功もあることが大前提の中で過ごしていったからだと思います。
そして、普通にある多くのことから、不得意なものを得意にするきっかけを見つけることもできました。
本当に、早期に外から見極められていたら、そして、見極められた私に合うと思われるアプローチをされていたら、まったく違っていただろうと思います。(どちらが正解・不正解、幸不幸とか言いたいのではありません。)
今、色んな適性が表され、それに対してOKとかNGとかいろいろと言われすぎていて、そのせいで逆に悩んでいる方も多い気がするので、ちょっと書いてみました。
当時とは時代が違うといえば違いますが、同じ部分もあると思いますので。
部屋でもそうでしょう? 整理しすぎると、逆に使いにくくなること、ありません?
スケジュールもそうでしょう? 決めすぎると、逆に得るものが減ることもありません?
なーんてなんて。
でーはでは。

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