方法よりも大事な部分を大事にしたいですよね
なんでも失敗しないとうまくならないですよね。
えーとぉ・・・
私、怒るとか叱るとか注意するとか、あまり区別しないで話すことが多いです。
しっかりと区別して話すこともありますけど、なんか理屈っぽくなってもいけないし、なので、あえて、分けないで、怒る、叱る、注意する、という表現を使うことが多いです。
で・・・・
最近、「怒る、叱る」をとにかく減らす、というか、「しない」方法論がやたらと流行っていますが・・・
「怒る・叱る」のだって、「怒って・叱って」、「あ、怒りすぎた」とか「ああ、叱らなきゃよかった」とかを知っていくわけで。
ああ、やっぱりちょっと面倒なので、ここではもう、「怒る」で書いちゃいます。「叱る」だと、伝えたいこともちょっと弱まっちゃうかもしれないので。
話を戻して・・・
失敗しないと、怒り方もうまくはならないのです。
失敗しながら、うまくなっていくのです。
その経験が、年齢に応じて大切な範囲でできているか、ということがとても大切だと思います。
別に、怒ることを推奨しているわけではありません。
怒った側が反省しなくてはならないことはたくさんあるはずなので。怒る側の力量不足が原因で怒ることになることもあると思うので。
ただ、あまりにも、怒らない方法が推されすぎていると感じるもので、ちょっと心配になりまして、ここでこんなことを書いています。
ずっと怒らないでいた人が、初めて怒ったら、そして、その時は怒らない方がよいケースだったりしたら・・・。ということを考えても、怒る経験はしておいた方がいいでしょうね。失敗を通じて、色々と学んだ方がいいでしょうね。
怒られた側も、なんで相手が怒ったのかを考えることは必要でしょうし。
教えてもらうのではなく、感じる、自分で考える、という力を養う必要があるでしょうし。
それに、少し戻って、見る側の力量不足で怒ることになった場合、その力量不足に自分で気づく必要がありますが、怒ってしまったことでうまくいかなかった時に、「ああ、申し訳なかった」と感じる人であれば、自分の力量不足にも気がつくでしょうが、叱らない方法をとっていた場合、その後に良い方向に進まなくても、「ああ、申し訳なった」と思えるのかなぁ・・・自分の力が足りなかったということに気がつくことができるのかなぁ・・・・なんて思います。
そのような原因を改善しなくては、プラス方向に行かないことも多いと思うのですが・・・。
そもそも、人間は生きていくために生まれてきて、その体に不要なものは備わってはいないはずで。
怒りの感情が生まれるようにもなっているのは、それが必要なこともあるからでしょう。
ただ、それを正しく使うことや、正しく感じること、さらに、コントロールすることを覚える必要もあるのでしょう。
そのために、相反する、または類似する、さらにまったく別の、他の多くのものが私たちには備わっているのでしょう。
なんてね、思ったのでした。
私は、たくさん叱られたことありますけど、自分に必要だと思えることがたくさんありますし、嬉しい経験にもなっています。もちろん、そうではないケースも経験しています。
ですが、叱られることが不要だとはやっぱり思えないです。
と書きながら、くどいですが、
叱ること、怒ること、注意することを推奨しているわけではないです。
とにもかくにも、相手の気持ちを考えることが大切だと思います。
・・・これも、年齢に応じた範囲、大きさでいいと思いますが。
「叱らない」「怒らない」の理由が、もし、「興味があまりないから」だったら、どう思います?
怒ることもあるけれど、その理由が、大切だと思っているからだったら。
もちろん、大切に思っているのなら、怒ることが適当ではなかったケースについては、自分でそれに気がつくことができるよう、相手のことを深く、大きく、しっかりと大切に思っておきましょう。じゃないと、大切に思っていないケースよりも劣ることが出てきます。気づけないケースも出てきます。
より、嬉しい思い、楽しい時間、嬉しい時間が増えますように。
・・・と、つくづく、つれづれ・・・でした。
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