ラッキーへ(私的なことなので読まないで平気です)
完全に私的なことなので、読まないで平気です。(読んで嬉しくなる話ではありません。読まないで頂けると助かります。)
もしかしたら、いつか、どこかで、ラッキーがこのブログを読むことがあるかもしれないと思って、書きます。ここでしかブログをやっていないので、ここに書きますが、そういう目的なので・・・。
2017年12月31日、朝4時50分頃、愛犬のラッキーがなくなってしまいました。もう15歳で、病院の先生からは、今の状態では生きているのが信じられないと言われながら、「もって年内いっぱい」と言われていました。この2日くらい、弱まりかたがすごく、そして、今朝、なくなってしまいました。
2017年12月31日、朝4時50分頃、愛犬のラッキーがなくなってしまいました。もう15歳で、病院の先生からは、今の状態では生きているのが信じられないと言われながら、「もって年内いっぱい」と言われていました。この2日くらい、弱まりかたがすごく、そして、今朝、なくなってしまいました。
息をひきとる数時間前、もうちゃんと立つことも歩くこともできないくらい体が弱っているのに、立って、歩いて、しっぽをたくさん振りました。一生懸命歩いて、しっぽをすごく振っていました。なんか、「ありがとう」と言っているように思えました。「まだ元気だよ」と言っているようにも思えました。一生懸命にそれを伝えようとしているように思えました。
そんなことを二回もやって、逝きました。
今日の朝10時には、病院に行って点滴をする予定でいました。数日前から具合がとても悪くなったので、病院の先生が「もしよかったら」と言って下さったのです。だから、「あと6時間で病院だよ」「あと5時間で病院だよ」と声をかけました。その時、「だから、頑張って」と言いました。でも、もう十分に頑張っているのもわかっていたので、「頑張ったね」とも言いました。矛盾する言葉ですが、悔しい思いでなくなってしまうのは嫌だったので、そして、なんて言っていいかわからなくて、どちらも言いました。ラッキー、あの時の言葉は、そういう理由です。
なくなる少し前、吠えました。なんだか、みんなを呼んできてほしいと言っているように思えました。でも、それは、「もう最後」ということで、自分がそう思ってしまったら、本当にそうなってしまいそうな気がして、そうなるのはイヤだから、そうとるのはやめて、どこか痛いのかなととらえました。どうした? どこか痛いのかな・・・と。痛いのもかわいそうなことだけど、「もう最後」になってしまうのはイヤで、「どこか痛いのかな」ととらえることにしてしまいました。ごめんね。でも、その後、少ししてなくなってしまったから、やっぱり「みんなを呼んできて」と言っていたのかもしれないね。ごめんね。だけど、息をひきとった後、すぐにみんなを連れて行ったでしょ。だから、きっと声は聞こえたよね。だから、許してね。
ラッキーは、ずっといい子でした。ずっとかわいい子でした。最初から最後まで、ずっといい子で、ずっとかわいい子でした。また、会いたいね。本当にずっといい子、ずっとかわいい子でした。
今、悲しいよ。今まで、ありがとうね。
おやすみ・・・
ラッキーへ
いつか、どこかで、このブログを目にするかな・・・。