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2010年9月25日 (土)

悔しすぎる2月

(2009年3月 通信No.80より)

2月の2週目、U-12クラスのある曜日、私は子供たちに混ざってゲームをしました。
1月はかなり厳しめの雰囲気にしたので、2月からは楽しいモード全開でやらせてあげたいと考えていました。本当はもっと早くそういう時期が来ても良いと思っていましたが、なかなかそうならず、この時期まできてしまったのです。
ですから、時期が遅くなった分、2月はただただ笑顔で、その中で程よいケンカや言い合いがあって、子供が子供のリズムで、子供の感覚でスクールの空間を、サッカーを楽しむような、そんなスクールになればと思っていました。
そんな予定の2月を迎えるため、実は、1月中に、「伸びていないかもしれない6年生がいる」こと、「それは俺の働きかけが良くなかったからかもしれないから、申し訳ないと思う」という話をしました。
そして、「だから、悪いが、お前ら(6年生やみんな)も、自分が成長するように努力してくれ、友達が成長するように努力してくれ、自分から周囲に関わろうとする,周囲に関わろうとしていない子がいたら、関わらせようとする努力をしてくれ」と話しました。
「してくれ」と言っても難しいかもしれませんが、その努力をしてほしかったのです。行動に移すまではいかなくても、他の子をもっと見ようとは思えるはずです。
困って、行動に移せない、それでも別にいいと思います。
まず、もっと関わろう、関わらせようと思う、これが今の彼らにはすごく大切なことだと思っていました。
だから、本気で話したんです。ここでは伝わらないかもしれませんが、かなり本気で話しました。2月を迎える前にできる、最後の手段かと思って話し、彼らも聞いていたと思ったのですが・・・それなのに。

2月のその日、私は怒りました。実際には「怒った」のではないのですが、子供たちにはそう思えたでしょう。
てめーら、約束したじゃんか、という気持ちです。責任転嫁もいいところですが、でも、お前らにだって頼んで、お前らだって受けただろうが、という気持ちです。ところが・・・
実は6年生には、6年生全体へ宛てた手紙を何度か書いていました。
「本当にうまくなりたいなら、一人もほうっておくな。全員でうまくなれ。全員に挑戦させろ、努力させろ。自分もめちゃくちゃ頑張るし、友達にもめちゃくちゃ頑張らせろ。学校も所属チームも関係ない。ここにせっかく集まった仲間なんだ。全員で関わりあってうまくなれ」・・・他にも色々と書きましたが、こんな言葉の入った手紙を何度も書いたり、消したり、直したりしました。何度も書いたのですが、書いた後にいつもどうするか考え、その度に渡すことはやめようと思い、結局、一度も渡さなかったのでした。
そういう手紙を書いたことがあることを、その日は何度か6年生に話していました。
何で話したのかと言えば、1月に話したことをまだ理解できていないと思ったからです。
このままではいけないと思い、これが(今の彼らの受け取る力、表現できる力を考えると)話をできる本当に最後の最後だと思って話しました。まだ、その時点ではその日の練習の締めくくりであるゲームまでには時間があります。だから、それまでに何とか伝えられればと思い、話したのです。

そして最後のゲーム。
私のミスで失点することもあり、子供に責められることも。別に責められることは構いません。今までにもそんなことはたくさんありましたから。でも、そんな雰囲気がエスカレートした時、ついに、私の怒りも頂点に達しました。
その日にやったどのゲームも、私に文句を言う子やゲームでシュートを打つ子、それを避ける子も、みんな、バラバラな感じ。自分で好きなプレーをして、自分は関係ない顔をして、関係ない顔をしている子のことなどおかまいなしで、みんな好きなことを言ったり、好きにプレーしたり。
さっき話をした時間はなんだったのか、こんなに互いの関係がバラバラで何を楽しそうにしているのだろうか。そう思うととても悔しくなりました。
私に文句を言うのが全員なら別にいいんです。でも、限られた子だけ。シュートを決めるのも、喜ぶのも、限られた子だけ。相手のシュートや攻撃を適当に避けて、シュートを打った側の子は相手が(自分の打った)シュートを適当に避けても、つまり相手が本気で守っていなくても何も感じないで、ただワーワーとやっている。それが6年生のプレーか。一緒に練習をしてきたやつらのプレーか。それで本当に楽しいのか。
そんなゲーム、他のところでやってくれ、うすっぺらい関係のやつらだけでやってくれという感じです。
そんなゲームを自分たちがしていることに誰も気づかないので、怒りました。
ゲームも嫌な感じのまま終わりにしました。最後だけ取り繕うなんてこと、私はしません。
もう終わろうと言った時に、「わかった、ちゃんとやる」と言った子がいましたが、あの日、あそこまで話して、それまでに十分に気づく機会があっても気づかなかったことに、その後すぐには気づけないでしょう。
それまで友達を真剣に見ようとしなかったのに、ゲームがしたいから見るというのもふざけた話です。
そんな軽い気持ちで友達のことを考えてほしくありません。だから、嫌な感じのまま、終わりにしました。
なんでバラバラなのだろう。子供たちは、私が“みんなに文句を言われたから怒った”と思った子もいるかもしれませんが、そんなことじゃありません。そんなことの何十倍、いや何百倍も悔しいことだったんです。
この日の練習後、子供たちに次のように話しました。
手紙を書いたけれど、みんなに配らなかったのは、それがなくてもみんなが自分でできるかと思ったからで、その方がみんなにとって良いことだと思ったから。でも、結局、そこに書いてあるようなことを話してしまったのは、俺が自分で勝手に「配らない方がいい」と思ったせいで、みんなが成長せず卒業したら、それは申し訳ないから。だから、話すと。
自分から変わろうとする努力が必要な時に、自分でそれをしない、周囲がそれをさせようとしないのなら、私はもう、どんどん言います。もちろん、何も言わずに様子を見ることもします。でも、放っておきはしません。
そういうことをわかった上で来いと言いました。それが嫌なら、来るんじゃねーとも言いました。これは、彼らと付き合う私の本気です。
自分の殻を破ろうとしない奴、友達のことを何とも思わない奴らにはバンバン言うと、何度も言いました。

そして・・・翌週は違う曜日で、同じようなことがあり・・・。この日はゲームではなく、練習で。
2人組を作らせ、「同じ所属チームの人と組むのはダメ。もし自分がペアを組めても、他の人が同じ所属チームの人と組むことになってしまったら、自分のペアを崩して組み直すこと。そして、全員が所属チームの違う人と組めるように協力すること」と言ったのです。すると2人余り、その2人は所属チームが同じなので、組むことはできず…。それなら、誰かが自分のペアを壊して組み直せばいいのです。が、それができない。
もちろん、ペアを組んだ子と離れることは「相手に悪い」と思うこともあるかもしれませんが、その時の子供たちの表情は、ペアの子のことを思って動かないという顔には私には見えませんでした。誰かがやってくれるのを待っている、きっと自分はしなくても大丈夫、そんな顔に見えました。
「ふざけるな」です。大切なのは実際にできるかどうかではなく、やろうと思えるかどうか、です。やろうとして「できない」のと、「誰かがやるまで待つ、やらないで待つ、だからできない」のとでは全然違います。
その後、子供が一人増え、人数は奇数に。一つメニューをやった後、また、同じように2人組を作らせました。一人余り。そして、違うメニューをやり、また2人組を・・・また、同じ子が一人余り。
一人余った子にも、他の全員にも「ふざけるな」です。
子供ではわからないことがあってもいいと思います。でも、「これぐらいはわかるだろうよ」と思います。
それとも、そういうこともわからない、或いはわかっても動けないのか? ・・・本当に悔しいです。
友達同士が公園でベンチに座り、お互いに別々のゲーム機を手に持ち、それぞれのゲーム機の中で作られた表情の人物と対話したり、作られた人物を操ったりしているような光景をよく見ます。それが悪いことだとは思いません。私も今の時代の子供だったらゲームを欲しがるでしょう。ですが、こういう時代だからこそ、目の前の友達と触れ合う経験がより必要なのではないのかと思います。
スクールでは十分にそのような経験を大切にしてきたつもりでしたし、また自分自身努力してきたつもりでもありましたが、友達を感じる経験をもっとさせるべきだったのではないかと、今更ながら強く反省しています。
大人のように気を使うとか、そんなことは全く望んでいないけれども、人がそこにいることを感じる、子供の感じ方でいいから感じる - そういう経験を、もっともっとさせるべきだったかなと、深く思います。
そこにいるすべてのやつの存在を感じろ、こんな程度のつながりで卒業させてたまるか、そう思っています。
おとなしい子が悪いわけではありません。声が小さい子もいるでしょう。でも、それが普段の彼ら、本当の彼らなのか。私はスクール以外の場での子供の姿、スクール以外の友達といる時の子供の姿も見ています。できれば、本当の自分でいてほしい。自分を出せる場、そういう場、そういう仲間にしたい。
もちろん、場所によって、態度やふるまいが変わるのも自然なことですから、今の成長段階に合わないことは強要すべきではないでしょう。でも、そういうことと違い、自分が他の子に関わらなくても時間が流れ、空間が作られていくーそれをそのままただ受け身で見ているということは、自分から選んできたここ、ソラではすべきことではないと思うのです。
ソラに来たなら、ソラにいるやつらを一人一人が感じろ、その中に一人一人しっかり存在しろ、存在させろ、そう思います。こんなことを感じた2月でした。

みんなに同じように笑ってほしいのでも、同じように怒ってほしいのでも、同じように一生懸命になってほしいのでもありません。ただ、自分らしく存在してほしいのです。ソラはお前らの場所だとわからせたいのです。
話がそれますが、だいぶ前、ブログにちょっと書いた、「高校の時の自分が嫌いだ」という文を呼んだ後輩から、「なんで嫌いなんですか?」というメールが来ました。私のことを語ってもしょうがないので一言で言うとすれば、「自分らしくなかった」からです。どんなに後悔しても、その時にはもう戻れません。もちろん、それによって多くのことを学ぶことができたのかもしれません。だから、今があるのかもしれません。
今、私はソラでコーチができて、本当に幸せだと思っています。こうしてソラの子供たちと一緒にサッカーができて、コーチができて、世界一幸せなコーチなんじゃないのかと、よく思います。それでも、自分らしくなかった時のことは一生後悔すると思います。私は高校生だったのに、自分らしくないということに全く気づきませんでした。自分を見失っている時や自分らしくない時というのは、もしかしたら自分では気づかないのかと思います。もちろん、自分の経験を子供たちに当てはめることが良いことだとは思いません。でも、他の人の話でも、「自分らしくなかった」時期に自分では気づかずに大きなものを失ったという類のことはよく耳にすると思います。自分で気づきかけることも、気づくこともあるかもしれません。でも、自分では気づかないこともやはりあるのだと思います。
ソラに来てくれた子供たちには、こんな後悔、経験はさせたくない、させるべきではないと思うのです。
だから、一人一人、自分らしくあってほしいと思うのです。・・・・・・これが、2月に書いたことでした。

そして、もう最終月。
さすがに、もうこれまでに、言うべきことは言ってきたので、あとはできる限り様子を見て、変化を見ていきたい、すべきことのみに集中していきたいと思います。
子供たちのグラウンドでの行動は、これまでにどのように接してきたかという私の責任が大きいので、子供たちをただ責めているのでもありません。
それに、ソラの子は決して友達の気持ちをわからない子でも、友達との関係を軽く考える子でもないということだってわかっています。
ただ、もっとくっつく力、関わり合える力を持っていると私は思うだけです。
もっと、今よりもっと、一人一人がしっかりと存在して、その存在を掛け合わせたような空間を作れると思っているだけです。だからこそ、それができなかった、その部分がもっと成長できたかもしれないのに、その力があるはずなのに見せてくれなかった2月が悔しかったのです。
お前ら、子供ではあるけれど、もっといけるだろうよ、そう思ったのです。

・・・さて、もうすぐ最終週。
今年度最後の練習、空間まで、自分の責任を十分に感じつつ、でも、子供たちが伸びるように必要な働きかけはしながら、しっかり見たいと思います。

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